Living at the same time 同じ時を生きて

11/30更新


銀色にやさしく光る、ピアスやイヤリング、チョーカーやペンダント、
ブレスレットなどがやってきた。
はじめて出会ったたのは、この秋のRoomsの展示会だった。
いろいろなアクセサリーが並ぶ中で、Oh! これ!と一直線に。
ゴールド系も好きだけれど、クレヨンハウスにはすでにブラジルの黄金色の草でつくったコロリーダスをフェアトレードで入荷。すでに人気商品だ。わたしも幾つか持っているが、今度はシルバー系が欲しかった。

展示会で偶然出あってしまったのが、大寺 桂さんの錫のアクセサリー。その時は連絡先だけをお聞きした。改めてご連絡して、たくさんの作品を送っていただき、東京店3階に29日に、すべてをディスプレイし終えた。

軽やかでありながら、存在感がある。 存在感がありながら、押しつけがましさがない。つけるひとを、素敵にしてくれる作品だ。 とにかく、観てください。触れてください。つけてみてください、としか言えない。

こういった若い才能に、どこよりも早く出会えることも、 クレヨンハウスをやってきた(45周年だ、この12月5日で)喜びのひとつだ。新しい作家の新しい絵本や、すでに存在感のある作家たちの新しい切り口の作品を刊行しているのも、同じ理由からだ。
若いときから、自分が最前線に出るよりもプロデュースのほうが好きだった。そのほうがかっこいい、と考えていた。

コロナ禍で、気分が上向きになれない日々の中で、
久しぶりにうれしい若き女性作家との出会いである。
大寺桂さんは、東京港区出身。クレヨンハウスの近くの、青南小学校を卒業し、子ども時代にクレヨンハウスに遊びに来ていたとうエピソードもうれしくなる。
現在は、富山県高岡市で二人のお子さんを育児中。
錫のデザインに表現されている、清々しい生き方についても、いつか直接お目にかかってお話できる日が来るだろう。
そんな楽しみが増えたことも、また嬉しい。

>>錫のアクセサリー[kohachiro]



どんな時でも平常心を保とう

それを失いそうな時ほどそうするのだ

自身に向けてそう言い聞かせてきた

そしてわたしたちはいま

再び自身にそう問いかえす時代と社会を

迎えている

平常心を保つために必要なモノやコトは

ひとそれぞれだろう

わたしにとってそのひとつはことばだ

ことばはことばでしかないのだが

こんなにもたくさんのことばが溢れているのに

ことばが見当たらない

それでもわたしはことばを探しつづける

遠い昔に聴いたあの歌 ♪Catch a falling star……

流れ星をキャッチして大降り大荒れの日のために

キープしておこうというフレーズを思いだしながら


落合恵子



10/25更新

2011年春にスタートした「journal of Silent Spring」。
長い間、ご無沙汰していました。

新しいブログをスタートします。
深呼吸をしたいとき、
深く、他の誰よりもご自分と向かい合いたいと願う時、
どうぞおつきあいください。

> ブログ・落合恵子の「明るい覚悟」Living at the same time こんな時代だからこそ。

10/12更新

「わたしは、肌の色という 自分にはどうしようもないことで、
これからも屈辱を味あわされ続けるのがいやだったのです」
アフリカ系アメリカ人で、「公民権運動の母」と呼ばれるローザ・パークスの言葉だ。
すぐに、「わかるわかる」と頷きたくはないし、決して軽い言葉でもない。
婚外子(他に言葉はないのか?)であるわたしも、
長い間「自分にはどうしようもないこと」で、屈辱を味あわされたり、
お角違いの同情をされたりするのがいやだった。
「どけ、どけ、どけー」。いつもこころの中では、叫んでいた。

10/10更新

最近、以前読んだ絵本を読み直している。
あるんだなあ、新しい発見が、それが何度目であっても。
クレヨンハウス一階。
「人種差別を考える」コーナーや「グリーフケア」のコーナー、
目を逸らすことなく子どもたちに伝えたいテーマのコーナーなど、特別企画も充実。
いつも言っていることだけれど、
絵本(物語にも)に年齢制限なし、だ。

10/8更新

「個人が物申せば社会の輪郭はボヤけない。
今、力のある人たちに、自由気ままに社会を握らせすぎだと思う。
この本には、そういう疑念を密封したつもりだ」
『日本の空気』 武田砂鉄 著、晶文社。

ずっと「休校」を余儀なくされたクレヨンハウス朝の教室。
再開の一回目は、武田砂鉄さん。
数年前に読んだご著書を再度読み、新刊も開く、「そうだっ」と。
10月31日(土)いつも通り朝9時スタート。

》原発とエネルギーを学ぶ朝の教室|10/31 武田砂鉄さん講演会

10/6更新

ようやく、掛け値なしの秋、と言いたい天気が。
週末にはまた崩れるそうだが。
クレヨンハウス東京店はいま、夏の名残の千日紅の赤紫、トレニアのカテリーナの薄紫、
イソトマの紫など、紫の濃淡の花が。
それらを愛でながら、冬から来春にかけて咲いてくれる種子を先日蒔いた。
動物より、植物のほうがつよいなあ、といつも思う。
政治がいよいよ、あらゆる方面に介入。
学問の自由はどこに?


9/23更新

……かつて考えていた「老い」とは
まるで異なるものがここに。

自分とのひそやかな約束、それを
わたしは『明るい覚悟』(朝日新聞出版 刊)
と呼ぶことにした。


9/19更新

……多くは要らない。
  丁寧に生きるために
  むしろ少しがいい……。

出たばかりのエッセイ集
『明るい覚悟 こんな時代に』
(朝日新聞出版 刊)の
帯に記した言葉です。

9/17更新

……明日18日は
日比谷野外音楽堂で、
久しぶりの「さようなら原発」の集い。

コロナ禍のもと、
ほとんどすべての集会が延期され ていたのだが。

わたしも参加する。
ご無理のない範囲で、あなたもご参加を。

9/9更新

夕暮れが早くなった。
朝の風が、
驚くほど涼しくなった。
9月なのだ。

トレニアの花の紫が、
より鮮やかになった。

9月は紫系の花が
似合う季節かもしれない。

朝顔も
むしろ真夏より
多くの蕾を
つけはじめている。

9/4更新

権力というのは、
その身近にいる者にとって、
より美味に思えるんだろうね。
政権与党の総裁選の報道を見ていると、
つくづく思う。

わたしたち、というかわたしは、
権力を否定してきた。
今でもそうだ。

が、否定してきたそれを
はじめて欲しいと思ったのは、
2011年3月11日、
そして、それ以降の日々だった。

力があれば、
あれもこれもそれもできるのに、と。

未決の事項も山積している。
次の首相は? に
熱くなる報道に接して思う。

メディアは並行していいから、
歴代最長になった一強政治の
負のレガシーを
いまこそ問い直すべきだ、と。

9/6更新

新しいエッセイ集が出る。
『明るい覚悟……こんな時代に』
(朝日新聞出版)
多くは要らない。
丁寧に生きるために、
むしろ少しがいい、と
帯のコピーには書いた。

75歳になったわたしが辿り着いた
「明るい覚悟」。
22のエッセイの各タイトルは、
はじめて動詞にした。
「脱ぐ」「放つ」「抗う」 「祈る」「忘れる」「つなぐ」etc

すっきりすんなりと
枠に収まる名詞では落ち着かない。
やはり動詞だ、と。

エッセイを書いている最中に
頭に浮かんだ絵本の紹介つき。
7日頃に本屋さんに並ぶそう。

よろしく!

9/1更新

9月だ。遠い昔、歌詞が好きな9月の歌があった。
「SEPTEMBER SONG」。スウィートなラブソングだ。
♪……9月になれば12月はそこまで来ている。残り少ない日々をあなたと共に過ごしたい……♪
こうやって訳してしまうと、「あ、そ」になりがちだが、人生そのものをうたった歌として聴くと、感慨深い。
わたしはいま、わたしの何月を生きているのだろう、と。
わたしの場合、9月は当然過ぎた。11月半ばも過ぎた?
いまは何月でも、自分を生きていくしかない。それは消極的な意味ではなく、積極的な意味として。
自分の外側に、人生の見本はない。


8/28更新

酢の物を
意識してとろうとしている。

キュウリ、ワカメ、玉ねぎ、
キャベツ、レタス、大根等。
洋風のドレッシングや
コールスローもいいが、
和風の三杯酢も美味だ。

三杯酢の中に、
すりごまや
おろし生姜を入れたりして。
柚子胡椒もいい。


8/25更新

老眼鏡を新調した。
いつまで元気でいられるか、
わかんないのに、ね。


8/22更新

キャロリン・ハイルブラン(ミステリーを書く時はアマンダ・クロス名)の
『女の書く自伝』(みすず書房)を久しぶりに読み直している。

……権力とは、
どんなものであれ
行動に不可欠な論述のなかで、
自分の立場をとる能力であり、
自分の役割を重要視させる
権利である。
これは、
米国国防総省(ペンタゴン)にも、
結婚にも、
友情にも、
政治についても言える。

まさに、その通り! である。


8/19更新

ここ数日ほど、一日の終わりには、
プラターズの懐かしい曲を聴いている。
『煙が目にしみる』、『トワイライトタイム』、『夕陽に赤い帆』。
彼ら彼女らの歌が、「黒いのはレコード盤だけで充分だ」と言われたのは
そんなに遠い過去ではない。


8/17更新

向日葵が咲きました。
長雨が続いたせいか、わが家の向日葵は丈だけが伸びて、
花は小さい。
それでも、今朝の日差しの中で、めいっぱい咲いている。
2020夏。2年後、10年後、
わたしたちはこの夏をどんな風に振り返るのか。


8/15更新

75回目の終戦の日。
平和とは、どんな状態をいうのか?
反戦・非戦は、どこから何から始まるのか?
改めて自分に
引き寄せて考えたい。


8/13更新

トニ・モリスンの『青い眼がほしい』(早川epi文庫)を読み返す。
白人社会の、と敢えていうまでもなく、米国における 社会とは当然、白人の価値観によって運営されている。
今回の白人警官によるアフリカ系アメリカ人の男性への暴力、殺害事件 の例をもちだすまでもなく。
1970年に発表された彼女のデビュー作だ。


8/11更新

ふっと、ため息をつく夕暮れ。
一体、このため息は何に対するものなのか?
コロナ禍そのものというよりも、なぜにかくも
具体的な対策が後手々々になっているのか、という苛立ち。
種子から育ってくれた白花夕顔に、傘を閉じたような蕾がつきだした。

8/9更新

1945年8月9日。午前11時頃。
長崎市松山町の上空。米軍の爆撃機がプルトニウム原爆を投下。上空で爆発。
先の広島から、そして長崎から、わたしたちは何を学び、何を引き寄せ、
何を自らのテーマにしたのだろう。コロナ禍で迎える75年目のこの日。


8/6更新

「ちちをかえせ ははをかえせ」から始まる
峠三吉さんのあの詩。
「わたしをかえせ わたしにつながるにんげんをかえせ」
「にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわをかえせ」

朝いちばんのセミが啼きだす小さな庭で声にしてみる。
あの日から、わたしたちはどこまで
「くずれぬ平和」に近づいただろう。それとも。
「経済を回す」という表現が棘のように喉に刺さる。


8/5更新

……どんな時でも平常心を保とう。それを失いそうな時ほどそうするのだ。
自身に向けてそう言い聞かせてきた。
わたしたちはいま再び、自身にそう問いかえす時代と社会を迎えている。
平常心を保つために必要なモノやコトはひとそれぞれだろう。
わたしにとってそのひとつがことばだ。
ことばはことばでしかないのだが。
こんなにもたくさんのことばが溢れているのに、ことばが見当たらない。
それでもわたしはことばを探しつづける……。

新型コロナウイルスの感染拡大に不安を覚えながら、「同じ時を生きて」というタイトルで、短い文章を書き始めたのは4月だった。そのとき最初に記したリードが上掲のものだったか。
このひと月余、休んでしまった。
再び書き始めたい。ことばを探して。


8/2更新

8月。
残念なことに
新型コロナウィルスの感染者は拡大している。
多くの市民は検査の拡充を求め続けてきたのに。
肝心の国会は閉会。
一体この国は市民のいのちと安全をどう考えているか。
心のマスクをとって、
イデオロギーの違いも支持政党も超え、
「いのち」から発言! 
諦めず、後ずさりせず。 
こころにマスクをするのはやめよう。
政治の無策のつけを、
市民が支払い続けるなんて異様だ!

漏斗型の白いサンパラソルが咲いている。
母が逝った夏にも咲いていた。


6/29更新

朝顔、夕顔、るこう草などの蔓が伸びている。
「こんな時代なのに」、
とふっと深い息をひとつ。
ずっと息が浅かった。
あとひと月もすると、この夏最初の花がついてくれるだろう。
今日を迎え、無事、今日を見送ることのありがたさをかみしめる。


6/27更新

久しぶりにビリー・ホリデイの
『ストレンジ・フルーツ』を聴いている。
「奇妙な果実」と訳されるこの歌と同名の彼女の評伝がある。
南部に行けば、大きな樹木の枝から下がる奇妙な果実がある。
太陽に焼かれ、風にゆすられるあの果実は……。
リンチされたアフリカ系の人々の遺体……。
そんな歌だった。
歌った彼女自身、肌の色で、女性であることで、
さまざまな差別を受けてきたひとりである。


6/25更新

アメリカ合衆国では人種差別への抗議活動が続いている。
5月25日、ミネソタ州での白人警官による
アフリカ系の男性への暴力、そして殺人事件が発端だった。
メディアの中には抗議する人々を
「暴徒化した市民」と報道するものもあるが、
大多数は「暴徒」ではない。
米国の大手の企業の一部から、
この抗議活動へのメッセージが。
たとえば「ここで沈黙することは、差別の共犯者となることだ」とか、
「この国、問題なんてないという風に装うのはやめよう」とか。
こういう企業がこの国にも欲しい。


6/23更新

土曜日、クレヨンハウスの店頭で、
懐かしい顔と再会できた。
入り口で手指の洗浄からはじまって、
呼びかけにみなさん積極的に参画。
子どもの声が聞こえるって、
それだけで嬉しい。


6/16更新

堕ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み
三橋鷹女の句だ。
昔から、烈しい俳人だと思っていたが。
ちゃんと向かい合ったことがなかった。
そろそろ古書店巡りをしたいのだが、
「もういいかい?」


6/14更新

大きく欠伸をした。欠伸って、どうしてこんな漢字を書くのか。
どこかで聞いたことがあるような。
グーグルを調べれば出ているだろうが、ま、いっか。


6/12更新

きくちちきさんの『しろ と くろ』(講談社刊)。という絵本。
白い猫と黒犬の距離が、少しずつ少しずつ縮まって……。
こんな時だからかもしれない。
昨日の続きの今日が、昨日とちょっと違う今日が、とてもいとおしい。


6/10更新

『かなしみが やってきたら きみは』という絵本がある。
(エヴァ・イーランド、いとうひろみ訳、ほるぷ出版刊 )
かなしみという感情とどうつきあうべきか、
忌み嫌って、逃げることばかり考えていない? ちょっとつきあってみたら?
と、この作者はいう。
確かにそうかも……。でも、いまはつきあいたくないなあ。


6/8更新

女性画家たちの戦争、死にゆく人の17の権利、人はなぜ悪をなすのか、
鍵盤音楽の歴史、イン・アメリカ、死刑囚の有限と無期囚の無限、
詩歌と戦争、軟骨的抵抗者、ハムレットの母親、隣人記、初日への手紙、
トラウマの医療人類学……。
最も近くの書棚に並んだ書名の一部。
ただ、それだけ。


6/6更新

わたしたちは、名詞ではなく、動詞で生きている……。
そんなふうな言葉が、なにかの本にあった。
確かに。
生きること、暮らすことは「動詞」なのだ。
こうしている間でも。


6/4更新

20代の頃の写真がでてきた。
いまのわたしから、きみにかけてやれる言葉は…。
あの時はあの時で、一生懸命だったんだよね。
それだけ。
記憶が、ひとを支えてくれる場合もある。


6/2更新

さほど大事ではないと思えるものを
ひとつひとつあげていく。
そしてそれらを
ひとつひとつそぎ落していく。
その過程で、
見えてくる、見えてくる。
ほんのわずかな、大事なものが。
これだけでいいのだよ、と。


5/31更新

五月の快晴の日曜日。
知らない間に、本格的な春がやって来て、
知らない間に、初夏になり……。
感嘆するのは、自然と呼ばれるものが持ち得る
さまざまな「持続可能な力」です。
その自然を自らの手中に収め、
制圧できたと思う人間の傲慢さ、醜悪さ。
改めてそれらを考えた4月、5月。


5/29更新

本当に大事なものってなんですか?
市民ひとりひとりにとって。
F35やイージスアショアの配備は「あなた」にとって
大事なものですか?「わたし」にとっては?
しっかりと考えましょう。
いま、国にとって市民にとって、国会にとっても
最重要課題は一体なんなのかを。


5/27更新

矢車菊の藍色が、光に輝いてみえます。
ロベリアの紫の濃淡も。
上に向かって駆け上がるように
花を次々につけていく、涼姫の薄紫も。
自然の色の、なんと深くて豊かなことか。
長いお休みをいただいていた間、
クレヨンハウスは、例年以上の花盛り。
なんだか悔しいほど。
こんな時だからこそ、
季節の花にいっぱいに咲いてもらいたいと願っていましたが、
通じたのかも、思いが、
花たちに、緑たちに。


5/25更新

ひとは記憶からできていると記されたのは、長田弘さんでしたっけ?
確かに。
思い出してごらん、子ども時代で、最も嬉しかった記憶。
もっとも「美しい」と感じた風景。
もっとも「大好き」って思った大人のことを。
それらがあるなら、うん、なんとか生きていける、どんな時代も。


5/23更新

「不安で、呼吸が浅くなります」という声をよくききます。
背筋や腰を伸ばして椅子に腰かけ、大きく息を鼻から吸って
まるくすぼめた口から吐く。何度かこれを繰り返す……。
乱気流気味の脳内の風景を、すっきりとしてくれます。


5/21更新

「明日が見えない」時代なら、わたしたちひとりひとりが自前の「明日を創」ればいい。
政治はもとより経済も福祉も、そして、置き去りにされがちな文化も人間関係も……。
今回のコロナ禍で見えた不信や不穏、不誠実さ(いまにはじまったことではないが)を
ひとつひとつ問い直し、ひとつひとつを覆し、
「誰をも置き去りにしない時代と社会」、「誰をもとりこぼさない」行政に向けて、
改めてはじめの一歩を踏み出してみない?
「諦めないわたしたち」を見せつけてやろう!


5/19更新

コロナ禍のもと、「明日が見えない」時代です。
そして、こんな時に限って「夜陰に乗じて、よからぬ改変」を
企てるものもいます。でも、わたしたち、めげませんよね。
いつの時代だって、誰にとってだって、ここにはまだ来ていない「明日」は見えないものです。
だったら、今朝のいっぱいの味噌汁をていねいにつくり、ていねいに味わい、
目の前の今日と向かい合おう。


5/14更新

事実は語られ、記されなくてはならない。
真実には光が当たらなくてはならない。
いかなる理由であっても、事実と真実が隠される時代と
社会は、わたしたち市民の社会とは決して言えない。


5/12更新

「自粛」ということばと概念が、
今後、どのような意味を持ち得るのか、
注意深く見つめていきたい。
先の戦争で、これらの概念はどのように使われ、
どのように、ひととその暮らしを縛っていったか。
ひとを縛るのは、その概念を自らのミッションとして
受け入れた、外側にいる他者である場合が多い。
が、自らの内側にもその「他者」はいないか。
自前で考えることを放棄したものは、他者を縛り、
選別し、荒々しい同調圧力で、他者をなぎ倒す。


5/10更新

クレヨンハウスのアウトテリアはいま
晩春から初夏にかけての花盛りだ。
一年草はもちろん、宿根草も。
「ああ、あなたはここにいてくれたのだね」
上向きになれない心に、束の間の喜びを連れてきてくれる。


5/8更新

いつの時代でも、自然災害や人災、疫病等で
かけがえのないいのちを落とすのは、
往々にして「いままでそこにあった」社会で、「恵まれない」
と呼ばれるひとであることが多い。
いまがいつであっても、ここがどこであっても、である。
災禍が収まれば、おおかたはその存在を忘れてしまうのだ。
その距離は、ソーシャル・ディスタンスよりもフィジカル・ディスタンスよりも
はるかにはるかに、かけ離れている。


5/6更新

元気ですか?
元気でいてください。
向かい合って、思いっきりおしゃべりして、
笑い合える日に向けて、
どうかどうか元気でいてください。

4/30更新

「自粛」って言葉は
内発的のそれとは、どこか違うから
抵抗あるけれど......
しょうがない
「自粛」しよう
小さな庭の手入れをして
未読の本を改めて開き

生きることに
リセットなんてないよなあ、と
いう言葉にぶつかる午後
勿忘草が咲いている


4/28更新

「隠れ家」特集なんていうのを
雑誌がやっている。
人里離れた、いわくありげな宿だったり、
リゾートホテルだったり
食事処だったり
「隠れ家」なんてものは
自分の中に持っていればいいじゃん
と うそぶく4月
満天星つつじが咲いている


4/26更新

Our body is made of what we eat
わたしたちの身体は わたしたちの食べるものでできている、
と書いている会議室に、誰かが入ってきた。
慌ててポテトチップスの袋を隠す。
ポテチにはなんの罪もないのに、と苦笑をひとつ。


4/24更新

かの大統領が率いる国では
アングロサクソン系ではなく
ヒスパニック系やアフリカ系の人々が
コロナウィルスに感染する割合が多いと
報道されている
いつの時代でも
どこであっても
ひとつの状況下で
最も苦しむ集団は
  過去からすでに苦しみ続けてきた人々であるという
この壁


4/22更新

「絶対」なんて「絶対に」ないのだ
という時ぐらいしか使えないことばだ
10代の頃から
「普通」ということばも使えなかった
往々にして「普通」は
「普通じゃない」という概念と
ワンセットで使われるから
そうして 「普通じゃない」と想定したグループを
切り捨てるから
ことば狩りには当然反対だが
実にやっかいだ
ことばってやつは


4/20更新

過度にペシミスティックになっても
しょうがない。
かといって
過度にオプティミスティックになるのも
なんだか妙だ。
ちょうどいいところ
ちょうどいい距離で
神経とやらの振り子を適度に揺らしながら
暮らしていたいのだけれど
「適度」というのも実に難しい
過度に傾くほうがはるかに容易だ

夕暮れはロベリアのうす紫から広がっていく


4/17更新

読んでいない本が
こんなにも たくさんある
たぶん
人生の最期が来るまでに
読み終えることは できないに違いない
こんなにも未知が置き去りにされている。それは
無念か? 惜しいか? 残念か?
違う と わたしの中のわたしが否定する
未知が 未知のまま
まるごと ここにある ということの
なんという ゆたかさ!
なんという ふかさ!
なんという いとおしさ!

誰もいない 書店の夜
わたしは 陽気な迷子となる!

4/13更新

「詩人の長田弘さんのことば」

……ことばって、何だと思う?

  けっしてことばにできない思いが、

  ここにあると指さすのが、ことばだ……

(クリムトとの詩画集『詩ふたつ』。そのひとつにあたる

『花を持って、会いにゆく』クレヨンハウス刊)から。

長田弘/詩 グスタフ・クリムト/画
クレヨンハウス